【コーチング】自分という存在の境界線

僕は、人の役に立てる人になりたくて、

人の役に立ってる人だと周りの人から思われたくて

躍起になってました。

 

逆に言ったら、

僕は自分のことを「役立たずだ」と

わけもなく思っていたのです。

 

 

あちら側とこちら側、なんてあるのかな。ただ線があるだけ。かもしれない。

 

こんにちは、こんばんは。トラストコーチングスクール(TCS)認定コーチでマーケティングコーチの中野です。

今日もよろしくお願いします。

 

今日は、僕がよく考えることがある、

自分という存在の境界線、に関するお話をしたいと思います。

自分という人間はどこまでが自分なのか。

そんなお話です。

 

 

 

 

赤ちゃんの感覚

 

生まれたばかりの赤ちゃんって、

自分のことを自分でどう認識しているのでしょうか?

 

人間は4歳くらいまでで、

メタ認知というものを作ると言われています。

 

メタ認知、というのは

「自分は自分は自分である」

という認識を持つことです。

 

つまり逆に言うと、

赤ん坊は最初、自分は自分であるという認識をもっていません。

 

自然にあるものや母親と

分離された存在である、という認識がそもそもないのです。

 

それは赤ん坊にとっては

触れると触れられるを同時に経験できることを意味しています。

 

何の気なしに自分の手で自分の足を触った時に

大人だったら自分の手で自分の足を触っている、と認識しますが、

赤ん坊の場合、

自分の手で何かに触れた、かつ自分の手が何かに触れられた

自分の足で何かに触れた、かつ自分の足が何かに触れられた

ということを同時に経験していく

ということです。

 

赤ん坊は何かを知っているわけではありません。

そうやって経験をしながら

ゼロから全ての感覚を作っていきます。

 

そして、

そうやって触れる触れられるの経験の蓄積でもって

皮膚の内側と皮膚の外側の世界を認識していくようになります。

 

やがて鏡を見て、

「これは自分だ」と認識し始めます。

これは、鏡像段階論と呼ばれています。

 

赤ん坊は鏡や母親との関係性から

自分自身という存在を、コミュニケーションによって認識していくのです。

 

動物には、

自分は自然界と分離された自分である

という認識はありません。

 

自分は自然の一部である、という認識もありません。

 

そもそもそういった概念がなく

ただただ自然の一部です。

 

だから猫は鏡を見て

それは自分だということはわからないのです。

 

人間は触れる触れられる、見る、聞く、

などの経験を通して、

自分は自分である、という「メタ認知」を育て上げていきます。

 

 

 

コミュニティの一部

 

そうやって

自然とは分離された存在である

という自分を認識することができる人間ですが

それゆえに孤立を恐れる、という言い方もできます。

 

全ての生き物は

生存の確立をあげる、という目的を持っています

そのために生きている、と言えるし

そのために進化を繰り返してきた

と言うこともできます。

 

もっと言えば

地球自体が地球の生存確率を上げるために

地球の一部である地球上の動植物を進化させてきたのかもしれませんし

宇宙自体が宇宙の生存確率を上げるために

宇宙の一部である太陽系や地球、はたまた銀河をしんかさせてきたのかもしれません。

 

あまり壮大な話になると及びもつきませんが、

ともかく生命のあるものの最大の欲求はサバイバルです。

つまり生き残る=生存の確率をあげること

です。

 

毒や牙、爪、甲羅、長い鼻、などなど

人間以外の動物は素晴らしい武器や防具、道具などを

進化の過程で身につけていきました。

それも生存の確率を上げるためです。

 

では人間はどうでしょう?

人間には何もありません。

爪と爪の間に何かがちょっと挟まっただけで大騒ぎ。

牙どころか歯医者さんのお世話になったりまでする有様。

 

人間にはこれといった武器はありません。

 

だけど、人間はコミュニティを進化させてきました。

コミュニケーションする能力を飛躍的に向上させ、

社会を作り、協力し合うことで

生存の確率を上げてきた、ということです。

 

もしかしたらきっと、そのためにもメタ認知というのは必要だったのかもしれません。

協力し合うためには、相手を相手として認識し

相手の気持ちになって考えるようなことが必要になります。

そのためには

「いまここには、自分と相手がいる」

と認識する必要があり、

ということは、自分は自分である、という大前提の認識が必要になるからです。

 

いつからか人間はそうやって

自分を自分として認識しつつ

自分の生存確率を上げるために

自分よりも周りとの協力関係を優先して考えるようになったりもします。

 

そうやって

自分は自分でありながらも

あるコミュニティの一部である

ということを認識するようになっていくのです。

 

 

 

自分と自分以外の境界線

 

さて、

人は自分は自分である、としながらも

あるコミュニティの一部に身を置くことで安心感を得ることができます。

 

この場合、

自分と自分以外の境界線とは一体どこにあるのでしょうか?

 

皮膚でしょうか?

皮膚の内側が自分で

皮膚の外側が自分以外なのでしょうか?

 

では爪を切ったら、

切られた爪はもう自分ではないのでしょうか?

 

どうもそうではないように思うのです。

 

人間だけがメタ認知を持っています。

人間だけが、自分は自分である、と認識している特異な状況を持っています。

 

とするならば、

メタ認知でもそうじゃない認知でも

認知できるもの全てが自分であって

その中にメタ認知がある

というふうに考えることもできるのではないでしょうか?

 

平たく言えば、

「感じているもの全てがその人」

ということです。

 

あなたが感じているもの全てがあなたをあなたにしている。

 

そう不自然な理屈ではないように思うのです。

 

だからなんだ、と言うわけではないのですが、

そう考えると

「自分を良くする」

ということが

「自分たちを良くする」

ということとリンクする

 

というより

むしろ「自分たちを良くすること」が「自分を良くすること」

と考えやすくなるのではないか

と思うのです。

 

自分のため、でも相手のため、でもなく

自分たちのため

と考えることで、

自分という境界線がぐーっと広がって

人生に幅が出るのではないでしょうか?

 

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