例えば、
近所の公園に堂々と生えているイチョウの木を見た時、
あなたはその木が、なぜそこに存在するのか、
という意味を考えますか?
普段なかなか考えることはないかもしれません。
では、逆に、
イチョウの木には存在意義はないのでしょうか?
そうとも言えないでしょう。
誰かに頼まれたわけでもなく、
そこにいて、地球の大きな自然のシステムの一部として、
大切な運営役をしてくれている、と、
そうは思いませんか?
なんの意味もなく、とりあえず生えている木、
そんなもの、世の中にあるでしょうか?
では、動物はどうでしょう?
例えば、あなたが行ったことがないくらい深い深い山の中、
その山の中の森の中に、何かしらの動物がきっといるでしょう。
その動物の存在は無意味でしょうか?
きっと、そうではないですよね。
ある動物が害獣だからといって、
人間が大量に捕獲したら、
別の動物が大量発生して、
穀物が食い荒らされて、人間が飢饉になった。
なんていう例は、人間の歴史の中にたくさんありますね。
ということは、
もとをただせばその動物や植物の一つ一つに、
全て存在意義があった、ということになるのではないでしょうか?
では、あなたの存在意義はなんでしょう?
人間は、自分の存在意義を考えることができます。
そして、それゆえに悩んだり苦しんだりします。
「あんたには存在意義はないよ」
なんていうことを言われたら、
誰だって辛いし、
誰かに認めて欲しい、という気持ちにもなりますよね。
これは職場だってそうだし、学校だって社会だって、
なんだってそうです。
家族の中でもそうですよね。
では、存在意義がない人なんているのでしょうか?
僕はいないと信じています。
なぜなら、人間だって地球を構成する動物だからです。
他の動物と同じ。イノシシとか牛とかクマとかと同じだし、
イチョウの木やバラの花とも同じです。
同じように、何かしらの存在意義があります。
では、その存在意義っていつごろできるのでしょう?
イノシシの存在意義はいつできたのでしょう?
バラの存在意義はいつできたのでしょう?
僕は、
それはこの世に生を受けた時に、
もうすでにあった、
と考えています。
つまり、人間も同じ。
あなたは生まれて来た時に、
「もうすでになんらかの存在意義をもってこの世に生を受けた」
ということなのかもしれません。
そして、もうすでにそこにあるものに対して、
人間は、「自分の存在意義ってなんだろう」というふうに、
悩んだり苦しんだりします。
生まれた時から持っているものというのは、
もうすでに当たり前になっているのもだから、
なかなか見つかりにくいのかもしれませんね。
では、それはいったいどうしたら見つかるのかというと、
子供の頃から持っていた、純粋欲求から見つかるんじゃないかと、
僕は考えます。
理由なんか聞かれてもわからないし、
理由なんかないけど、
でもとにかくこれが好き。
これがやりたい。
これがほしい。
そういうものって、子供の頃、ありませんでした?
今でもあるとしたら、それはとっても素敵なことです。
僕だったら例えば、
とにかく電車に乗るのが好きです。
その代わり混んでるのはダメです(笑)
そういう純粋な欲求は、
あなたの人生の水脈となって、
あなたの存在意義という水源に、
必ずと言っていいほど結びついています。
だから、
意味があるとかないとかじゃなくて、
まるでどうしようもなく誰かに恋をしてしまうのと同じように、
理由もなく好きだった何かを、
もう一度思い出してみてください。
きっとその純粋な欲求は、
あなたの存在意義につながります。
そしてその存在意義につながることを仕事にできた時、
人は儲かるとか儲からないとかじゃなくて、
心から豊かさを経験しながら、
人の役に立ち、喜ばれ、
有意義で人生そのものの質の高い人生を送っていくことが、
きっとできるのではないでしょうか。