他人が自分を認めないのは問題ではない。自分が他人を認めないほうが問題だ。
という意味の、孔子の論語に出てくる有名な言葉です。
たとえ同じ出来事が目の前で起きたとしても、それに対する反応は千差万別で、それこそ70億通りあるといっても過言ではありません。
もっと言ってしまえば、同じ花を見たときに、自分と他人で同じ色に見えているかどうかなんて、どのように確かめられるでしょうか。
それなのに、人はよく「あの人は自分のことをわかってくれない、認めてくれない」なんてことを言います。
ではいったい相手が何と言ってくれたら、わかってくれた、認めてくれたと思えるのでしょうか?
仮に「Aです」と答えてくれたら「わかってくれた」と思える状況があったとして、
相手が「Aです」と言ってくれた場合に、
あなたの思っているAと、相手の思っているAは果たして本当に同じなのでしょうか?
ものの捉え方には70億通りあるように、ものの表現にも70億通りあります」
あなたの望み通りの反応が返ってきたとしても、実際にあなたの望み通りに相手が思っているとは限らないのです。
相手が自分を認めてくれているか、相手が自分をわかってくれているかを図る物差しはないのです。
「違う生き物」なのですから。
それでも相手を自分の思い通りに反応させたい、という思いを抱くことは、
極端に言えば「相手をコントロールしたい」と思っていることと変わりません。
あなたは、
「自分の感情や思考を自分の理想通り思い通りにコントロールすることができますか?」
「それすらできないのに、相手の感情や思考、反応を思い通りにコントロールすることなんてできると思いますか?」
自分にできることは、自分として自分なりの反応をすることです。
その姿勢で、相手のことを「自分なりに」認めたり、「自分なりに」理解に努めることなら、できそうではないでしょうか。
子曰く、人の己れを知らざるを患(うれ)えず、人の知らざるを患(うれ)えよ
どんなことも、まず自分からです。
あなたはあなたの人生を生きているのですから。