ちょっと久しぶりのあいうエッセイである。
まあ、某漫画よりはマシであろう。
さて、「ゆ」である。
ゆきねえという人がいる。
これは僕が昔やっていた「カミアリツキ」という変なバンドのメンバーの一人である。
カミアリツキについては前にも書いたかもしれないが、
何が変なバンドなのかというと、とりあえずメンバーが20人以上いたのだ。
そして、練習をしない。
というか、
曲もない。
練習もしなければ曲もないのに、
ライブだけはやる。
それがカミアリツキだ。
どうやってライブをやっているのか。
「完全即興表現」である。
ボーカルが歌い出し、他の楽器がそれに寄り添っていく。そんなバンド。
そして、
楽器じゃないメンバーもたくさんいた。
ダンサー、絵描き、朗読、照明。
ゆきねえはボーカルの一人として、いつも不思議な雰囲気をまとっていた。
明らかに年上なのだが、
年齢は不詳。
歌ももちろんうまいのだが、
声に深みがある。
元々は僕が猫楽団というバンドをやっていた頃に出会った、
U&Iというフォークデュオのボーカルをしていたのがゆきねえだった。
「今度こんなことやるんだよねー」
って、カミアリツキの話をしたら、
「私もやってみたーい」
というような感じで参加してくれたのがゆきねえだったと思う。
二人目三人目のボーカルとして、
表現に花を添えてくれたり、
ということをしてくれていた。
そんなゆきねえが、
ある日ものすごい冒険を始めた。
あれは確か下北沢の440というライブハウスでのライブの時だったと思う。
あの時は、
結構色んなメンバーがチャレンジングなことをしていた。
440は入り口から一番離れた方にステージがあるのだが、
その入り口の方でクラリネットを吹いているメンバーがいたり。
自分が飼ってる飼い猫の話をし始めるメンバーがいたり。
今思えば、あの日のゆきねえは楽屋入りの時からなんだかニヤニヤしていたと思う。
何かを企んでいたのだ。
あの日はどんなライブだったかな。
確か、非常に静かな立ち上がりだったと思う。
ゆるやかに歌い始めるメインボーカル。
そこに寄り添ってアルペジオし始める僕のギター。
絡みつくベース。
遠くの方から聞こえてくるクラリネット。
その雰囲気と見事に調和する照明。
卒業アルバムサイズの大きな本を取り出すゆきねえ。
え?卒アル?
なに?
ゆきねえなにしてるの。
表紙にも何も書かれていない、大きな白いアルバムサイズの本。
その本をおもむろに取り出し、低く設置されたマイクスタンドの前に腰掛ける。
まるで、静かな湖畔の木陰で紅茶を片手に読書を始めるかのごとく、
ゆっくりとその本を広げるゆきねえ。
全メンバーが、
自分の演奏をしながら、
ゆきねえが何をし始めるのか、固唾を飲んで見守る。
なかなかこんなことはないのだ。
演奏をしながら、
メンバーの一挙手一投足を、固唾を飲んで見守っている。
ゆっくりと、大きく、その本が開かれる。
その内容をゆっくりと確かめ、
ついにゆきねえがマイクに向かって歌声を発するのか。
否、発しないのか。
自分のライブで、
メンバーに焦らされる、
なんてことはそうそうないだろう。
ゆきねえ、一体あなたは何をしようとしているのだ。
湖畔にたたずみ、その真っ白な大きな不思議な本を広げ、
あなたはこれから何を歌うのか。
いや、歌うのか。
歌わないのか。
結論から言おう。
歌わないのである。
この日のゆきねえは、一切歌わなかった。
歌わなかったのである。
本を広げ、
マイクに向かって、
ついに発した音。
それは、
「3」
さん!!!!????
刹那、メンバーに衝撃が走った。
え、3って何?
しかし、ゆきねえは全く気にするそぶりを見せない。
いつだってそうだ。
マイペースにカウンターでお酒を飲んでたりする。
その時と全く変わらないその雰囲気で、ゆきねえは続けたのだ。
「てん」
てん!!!???
もうメンバーはパニックである。
でも僕たちは即興表現集団だ。
与えられたライブのその時間の間、
表現を止めるわけにはいかないのだ。
ただ、
やはり僕たちはその音量を下げた。
ゆきねえが次に何をするのか、気になってしまったのだ。
おさげ髪の眼鏡をかけたおとなしいクラスメイトが、
授業中に急に立ち上がって、何かを言おうとしている。
そうなれば、クラス中に静寂が走るだろう。
まさにそんな状態なのだ。
ゆきねえは不敵に、片頬で優しく微笑みながら、続けた。
「1」
僕たちは、察した。
これはあれだ、気にしすぎてはいけない。
「カウンターの端っこで一人で飲んでるあの女性、かっこうのいい飲み方をしてるよね」
って、わざわざ誰かに伝えることもなく、
その女性に話しかけるなんていう野暮ったいことをするでもなく、
ただ見るでもなく見守るあの感じ。
「4」
僕たちは音を落としすぎていた。
バーっていうのは、BGMが小さすぎると、他のお客さんの会話が聞こえすぎる。
だからある程度の音量を保たなくてはいけない。
「1」
今日は、ゆきねえは歌う気分ではないのだ。
ゆきねえは、自由にしてもらってる時こそ本領を発揮する。
発する一つ一つの声が、心地よく、深く、低く、ステージを揺らしていく。
「5」
クラリネットが遠くから聞こえる。
あれは汽笛。
また僕たちの旅が始まった。
「9」
思えばいつだってそうだった。
僕たちは勝手気ままに、お客さんのことなんて一切考えず、
表現を旅する様を垂れ流していた。
「2」
いわゆるシューゲイザー的に、深いリバーブの轟音がステージを包み始める。
僕は僕で、ギターをチェロの弓で弾き始め、
その音をその場で録音し、リピート再生して音を重ねる。
「6」
音量は上がり始める。
歌声も高まり続ける。
「5」
「3」
「5」
「8」
「9」
ゆきねえは、延々と、滔々と、
ずっと終わらない円周率を静かに発し続ける。
不敵に片頬で微笑みながら、
ずっと終わらない旅を、ずっと終わらない円周率の上で。