僕はたぶん、「表現」という言葉の捉え方が人よりも広い。
生きてるってことは、全部が表現だと思ってる。
人間だけじゃなく、全部。
例えば、
木なんか見てみる。
すごく不思議に思う。
なんで、幹の肌はこうなっているんだろう。
なぜ葉っぱの葉脈はこんなふうに走るんだろう。
なぜ葉っぱはこの形状なんだろう。
なんで、毎年同じような時期に、一斉に同じような動きをするのだろ。
なぜ、時々幹の下の方に気まぐれに新しく芽吹いたりするのだろう。
こういうのを、
僕は全部表現だと思ってる。
これが表現であるということは、
表現者がいるってころになるんだけど、
それが誰なのかはわからない。
地球なのか、神様なのか。
その規模までいっちゃうと、
人間ぽっちにとっては、おそらく地球と神様が同義になってくる。
たとえば、僕はついさっきまで部屋の片付けをしていた。
「ひ、かー。何を書こうかな」
なんてことを考えながら。
それで、
「あ、表現」
なんて思って、片付けを終えてキーボードに向かったのだけど。
片付けをしていた手なので、ちょっと埃っぽい。
やっぱり手を洗ってからにしようと思って、
今ちょうど手を洗ってきた。
するとハンドソープが変わってることに気づいた。
イソップのいい香りのハンドソープ。
奥さんが出しておいてくれたっていうことなんだけど。
こういう香りなんかも、全部表現。
イソップのシンプルなボトルも、このフォントも、全部表現。
奥さんと言えば、
先日散歩をしていた時に、奥さんが急に「ひゃあ」みたいな声を出した。
何事かと思ったら、
腕時計の近くに小さな虫がついていた。
僕は、虫ってそんなに得意ではない。
得意ではないんだけど、
「ああ、虫だな」
って思いながら見てると、普通の昆虫くらいならまあまあ眺めていられる。
すると、思うのだ。
特に小さい昆虫なんかだと、
「なんで、これで足が動くんだろう。関節はどうなってるんだろう」
って。
人間や哺乳類なんかだと、
骨があって、筋肉があって、皮膚があって、
なんかこう、うまいこと連動して動いてるんだなってことが、
わからないながらにもなんとなくわかる。
だけど、昆虫、特に小さい虫なんかはどうだろう。
アリとか。
もう、まつげよりも細いような足を器用に動かす。
ハエなんかになると、
あれを器用に動かして拭いたりする。
仕組みとしては、外骨格というのものがあって、それで動くってことらしいのだけど。
理屈ではなんとなく分かっても、感覚的に理解できない。
なぜ、そんな繊細なものが生み出されるのだろう。
これは、どういう表現なんだろう、
なんてことを考えるわけなんです。
めんどくさいですよね。
でも、僕には「表現」という言葉が非常にしっくりくる。
人間っていうのは、
意識していても、無意識にでも、何かを常に表現し続けるものだと思う。
例えば、選んでいるこの服。
僕はたいてい、ニューバランスのTシャツに卓球の時のジャージで日常を過ごしている。
これも、自分はこういう人間です、というなんらかの表現。
おめかしすることってあまりないのだけど、
例えばちょっと出かけるよなんて時には、
腕時計だけはするようにしている。
モーリスラクロアのグラヴィティという腕時計。
「でかける」=「腕時計をつける」というのも、
僕のなんらかの表現。
卓球をするのだって、そういう意味では僕を表す表現の一つだ。
2歳の息子も、なんか最近いろんなことを表現しようとする。
僕のことをママと呼ぶ。
(僕はパパです)
走り回ってはクルクル回ったり、
あと何回も滑り台を滑りたいんだと大声をだしたりする。
手を繋ぎたいという時もあれば、
手を繋ぎたくないという時もある。
こういうのも、全部表現。
というか、
生まれてから彼はずっと表現活動をしている。
ミルクが飲みたい、不安だ、眠い、なんか不快だ。
そんなことを日々訴え続けてきた。
ただ、ここで面白いなと思うのが、大人との違いだ。
彼、つまり息子は、
表現=表現者になっていると思う。
特に間に何も挟まっていないというか、
「わっ!」って思うと同時に、わっていう格好で「わっ!」って叫ぶ、
みたいな感じ。
僕たち大人はどうだろう。
僕たち大人は常に仮面舞踏会だ。
その時その時の仮面を意識的にも無意識にも器用に使い分ける。
家族に見せる顔、
友達に見せる顔、
ご近所さんに見せる顔、
電車に乗ってる時の無意識の顔、
コンビニの店員さんに見せる顔、
職場での顔、
などなど。
使い分けてるつもりはなくても、
無意識に使い分けてるはずだ。
意識して使い分けることもあると思う。
新規の営業先に、
家族に見せるような表情で飛び込める猛者はそうそういないだろう。
顔と言ってるのは顔面の表情に限った話ではない。
それこそ全ての表現だ。
パジャマを着て、電車には乗らないだろう。
でも、パジャマを着てコンビニに行くことはあるかもしれない。
全部が表現で、かつ、付け替え可能な仮面と考えられる。
仮面を付け替える、というと、
何かを偽っているような感じがするかもしれないけど、
そういうことを言いたいのではない。
そうではなくて、
そうやって器用に仮面を付け替えられるようになることが、
人間としての大人になる、っていうことだと思う。
それはつまり、
人間としての振る舞い、表現を、
コントロールできるようになる、
ということだからだ。
うちの息子はまだそのコントロールができない。
だから、
下りのエスカレーターに下から乗ろうとして、
下ってくる人を困らせてしまったりする。
「こっちは下りだからダメだよ、危ないよ」
と言っても、これに乗るんだと言って聞かない。
しまいには泣いて訴える。
こんなことを大人がやっていたら、
もうそんなのはたぶんyoutuberかなんかだ。
さて、
仮面の付け替えをコントロールできるのが大人、
できないのが子ども、としよう。
じゃあ、大人における、仮面を付け替えている張本人は誰?
ということになってくる。
それは確かに「私」なんだけど、
でもその「私」は「私」のまま表に出ることはない。
必ず何かの表現を帯びる。
必ず何かの仮面をつける。
どんなに、
「これが自然体の私」
なんて思っていても、
必ずどこかにその「自然体の私という表現」を、
客観的な立場から見ている「私」がいる。
完全な客観視ができなかったとしても、
少しでも「私の表現」を常に知覚している「私」がいるということはわかると思う。
「自分」というものの存在を自覚している以上、
必ずそうなってしまう。
表現者の話に戻ろう。
木や昆虫の話をした時に、
表現者は地球か神様か、
みたいな話をした。
この文脈でいくと、
人間ぽっちにとっては地球も神様も同義だろう、
ということも言った。
となってくると、である。
仮面を器用に付け替えることで大人として生きている「私」を「表現」している存在があって、
その仮面を意識的にも無意識にも器用に付け替えている張本人が「表現者としての私」ということになってくる。
この「表現者としての私」が地球である、と言うつもりはない。
けど、「神性を帯びた何かである」ということは言えるんじゃないか、
と思う。
神様は、
「経験」をしたいから人間を地球につかわし、
人間を通して「経験」をしている、なんていう話も聞いたことがある。
となると、「表現する」ということも経験してるんじゃないか、とも思えてくる。
その時やはり、表現者は神様的な何か、と言えるのかもしれない。
そもそも、
木や昆虫と同じように、
「人間という表現」をさせている「表現者」は神様的な何かだろう。
そして「人間という表現」をする中で「より人間らしい表現」として、
「仮面を付け替える」という表現をさせている「表現者」も、
やはり神様的な何かだろう。
となると、ちょっと待てよ、となってくる。
子どもはどうだろう。
特に、物心つく前のうちの息子くらいの子ども。
仮面がない子ども。
何か降りてきたものを、そのまま直接表現する子ども。
彼らは「表現」でかつ「表現者」なんじゃないか。
だって、仮面のフィルターも、思考のフィルターもないのだから。
大人になる過程で引っ込んでいってしまう「表現者としての私」が、
そのまんま表に現れている状態。
なんとも純粋な表現者、ということになるように思う。
物心つく前の子どもに、神様的な何かを感じるのは、
もしかしたらそういうことなのかもしれない。
なんてことを考えるままに殴り書きにしてみたので、
理路整然としていないことは重々承知の上、
読み返すことも確認することも推敲することもせず、
このままこの乱文を表に表してしまおう、
という、
僕の表現。