モチベーションって確かに大事だと思う。
モチベーションがないと仕事ができなかったり、趣味に打ち込めなかったり。
そういうことってあると思う。
ただ、このモチベーションというものにあんまり振り回されるのも、
健全でないように思う。
そもそもモチベーションとはなんなのか。
ちょっと調べてみた。
まず、日本語で言うと「動機づけ」ということになるらしい。
もうちょっと詳しく言うと「行動を始発させ、目標に向かって維持・調整する過程・機能。」ということになるようで。
面白いなと思ったのは、
「動機づけは人間を含めた動物の行動の原因であり、行動の方向性を定める要因と行動の程度を定める要因に分類できる。動物が行動を起こしている場合、その動物には何らかの動機づけが作用していることが考えられる。またその動物の行動の程度が高いかどうかによってその動機づけの強さの違いが考えられる。」
という説明にある通り、これが人間だけではないということだ。
僕はモチベーションというのはなんらかの「心理的なもの」と考えていたのだけど、
動物も含まれるとなると「心理」ではない別のものと言えそうである。
動物が行動をしている時には、なんらかの動機づけが作用している、と。
動物の話を出してからこの話をするのは若干はばかられるが、
うちの2歳の息子が最近怒られても怒られてもはまってる遊び?いたずら?みたいなものがあって、
それが、
「テレビ台の引き出しの上にのり、テレビもテレビ台も揺らしまくる」
というものだ。
テレビが倒れそうになって、まことに危ない。ほんとご遠慮いただきたい。
けど、怒られても怒られてもやる。
引き出しをあけ、そこに乗る。
そして、パパやママが見ていないかをチラッと確認する。
こちらだって気づかないわけじゃないので、
その様子をじっと見ている。
叱るにはまだ早い。
でも、この後そのいたずらをしようとしていることはわかっているので、
それを「やるなよ」という目でじっと見ている。
すると、苦笑いをしながら、
「へへー」とか言いながら、
そこから降りる時もある。
そういう時は、
「よく我慢できたね。えらいね。」
と褒めている。
だって、悪いかどうかの前に、それがやりたくて仕方なくてやってるんだし、
まだ何が正しいとか悪いとかそういうのもよくわかっていない中で、
やりたいと強く思ったことを我慢できたんだから、
それは僕はえらいと思うのだ。
けど、
ほめたのも束の間、また引き出しに乗ってしまう時もある。
そして、またパパとママからじっと見られる。
すると、
「どうしようかなー」
「やったら怒られるもんなー」
みたいな顔をして、しばらく固まったりする。
そして、次の瞬間。
意を決するのだ。
「よし、やろう」
と。
がっしゃんがっしゃんがっしゃんがっしゃん!!!
なんでなんだ、息子よ。
一回辞めようとしたじゃないか。
なんでまたそれをやるんだ。
みたいなことがしょっちゅうあるのだ。
ここにも、なんらかのモチベーションがあるのだと思う。
つまり動機づけだ。
おそらくは、
テレビ台の引き出しの上にのってガシャガシャやると、
テレビ台もテレビも音を立てて揺れるのが面白い、
みたいなことだとは思うのだけど。
このモチベーションというものは、大きく二つに分かれるらしく、
それは「生理的動機づけ」と「社会的動機づけ」だ。
生理的動機づけというのは、生命活動に関わること。
つまり「トイレ行きたい」とか「食べたい」とか「寝たい」とか、
そういうこと。
それに対して社会的動機づけというのはさらに3つに分かれるらしく、
それが「達成動機づけ」と「内発的動機づけ」と「外発的動機づけ」だ。
達成動機づけというのは、努力で高水準の目標を達成したい、という動機づけで、
例えば、スポーツで勝つために練習するとかそういうことだ。
これは非常に人間らしいというか、動物にはない要素というか、そいういうものだと感じられる。
それに対して内発的動機づけというのは、
好奇心や関心によってもたらされる動機づけだ。
ということは、うちの息子がテレビ台をがっしゃんがっしゃんするのも、
この内発的動機づけによるものと考えられる。
ただ、これが「社会的」動機づけと分類されていることに、少しだけ疑問を感じる。
なぜならば、
好奇心というのは動物にも存在するからだ。
というか、好奇心は動物のサバイバル本能がもたらすものなのだ。
動物は小さい頃、好奇心を働かせ、いろんなものに興味を持つようにできている。
なぜそんなことをするのかというと、
どの行動パターンが安全で、どの行動パターンが危険なのかを、体に覚え込ませるためだと言われている。
だから、動物というのは大人になっていく過程で、
その好奇心というものをどんどん失うようになる。
「これさえやっていれば安全に生きていくことができる」
ということを、動物的に体が覚えるからだ。
そういう意味で、
うちの息子のテレビ台がっしゃん遊びは、
非常に動物的なもののように感じられる。
だから、
生理的動機づけだとは思わないけど、
社会的動機づけとして分類するのもどうなんだろうな、
とも思う。
さておき、
(こんなぶん投げ方ができるのもエッセイならではだ)
もう一つの動機づけは外発的動機づけだ。
外発的動機づけとは「義務、賞罰、強制などによってもたらされる動機づけ」とされている。
ここで面白いのが、
外発的動機づけと内発的動機づけは両立しうる、とされている点だ。
例えば、強制による外発的動機づけは、非常に自発性が低く、自律していないものとされる。
だけど、たとえそれが強制であっても、自分の価値観や人生上の目標と合致する場合は、
自律性が高まった外発的動機づけと言える、ということなのだ。
そして、自律性の高い外発的動機づけは、内発的動機づけとほとんど変わらない、とも言えるそうなのだ。
スポーツで言えば、
「この練習メニューをやれ!」と指導され、
「つらいけど、これをやれば強くなれるんだ!強くなりたいんだ!」と頑張っている場合には、
外発的動機づけかつ、内発的動機づけと言える、ということなんだろう。
でもちょっと待ってほしい。
そうなるとそれって「達成動機づけ」に分類されてくるんじゃないか、
とも思えてくる。
そして、
どうしたものか僕がこの文章を書き続けるモチベーションが音を立てて崩れ落ちていっている。
空腹のせいもあるが、自分で書いたこの文章がえらいつまらない。
何かを理路整然と説明するだけの、
物語のない文章というものがいかにつまらないか。
つまらないと、モチベーションっていうのは下がるのだ。きっと。
そりゃそうだよね。
だってつまらない=動機がない、なんだから。
モチベーションについて、よく相談されること。
「モチベーションが下がってしまって、仕事ができません」
という話。
これは、雇われているかどうかによると思う。
雇われてるなら、
モチベーションが下がってもやらざるを得ないことってあると思うので、
そこに何かしらの新たな動機づけをして乗り越える、
って方法があると思う。
問題は、雇われてるわけじゃなくて、自分でビジネスをしていたり、しようとしていたりするパターンだ。
この場合、僕はそもそも思うのだが、
モチベーションが絡むようなところで仕事をしない方がよい、と思ってる。
というか、
モチベーションが低くてもできることを仕事にするのがよい、
というともっとわかりやすいかも。
自分で自分の生きる糧を稼ぎ出さなくてはいけないのであれば、
それがモチベーションに影響を受けてしまうと、
それこそ生命の危機だ。
いや、生命の危機は言い過ぎだけど、
生活の危機くらいにはなるだろう。
だから、
モチベーションが低くてもできることを選んでおくと、
それは仕事として安定するんじゃないかと思う。
僕のこの文章を書き続けるモチベーションは、
もうほとんどない。
そもそもこれはエッセイだ。
書いても書かなくてもいいものだ。
誰に書けと言われているわけでもない。
なんで五十音順に書くなんて決めちゃったんだ、と、
自分で自分をめんどくさく思うこともある。
ああ、もうだめだ。
やめよう。
書くのをやめよう。
書くのをやめようということを書くのもやめよう。
書くのをやめようということを書くのもやめようなんてことを二度と書くまい。
とまあ、こんなふうに、
モチベーションが低くてもそれなりの文章量というのは書けるものなのだ。
だって、エッセイだから。
30分前の僕。
何が「モチベーションって確かに大事だと思う。」だ。
モチベーションなんか、どうだっていいんだ。どうでもいい。
どうにでもなれ。
ばーかばーか。