今うちには2歳の息子がいる。
これが、たまらなくかわいい。
今も「ちゃぷちゃぷちゃぷちゃぷ、へへへへへへへへ、んんんまぁぁぁぁぁ」という、
僕がまだ学んだこともない国の言葉を完璧な発音で発声しながらリビングを走り回っている。
間違いない。
天才である。
これは今に始まったことではないのだが、
世の中にいるたくさんの2歳児と見比べた時に、
間違いなくうちの息子が、客観的に見て一番かわいい。
これは主観ではない。客観的事実である。
つまり、
富士山が日本で一番高い山であるのと同じように、
うちの息子が一番かわいい。
繰り返しにはなるが、これは僕の解釈ではなく、あくまでも事実である。
何がここまで息子をかわいくさせるのかということを改めて考えると、
もうそれは「全てが」ということになるし、
これも客観的事実としていた仕方ないことではあるのだが、
それでもそのかわいい要素の中から無理やりランダムに一つを選び出すとしたら、
それは「ほっぺ」だ。
息子のほっぺはかわいい。かわいすぎる。
横から見ると、ぷくっとしている。
そのぷくっとしたほっぺごしに見えるくちびるもかわいい。
さわると、さらっとしていて、それでいてしっとりとしている。
やわらかい。
あんまり触ると怒られる。
でも触る。
諦めない。
こうして僕は息子に、
諦めないことの大切さを伝えているのだ。
さて、
ほっぺである。
これは、なんだかとても特殊なものなような気がしてならない。
というのも、
体の部位の相性の中で、
「っぺ」とつくところは他にないのではなかろうか。
おそらく、「ほお」または「ほほ」に「っぺ」がついて、
ほっぺになったものなんだと思う。
でも、
めっぺとか、はなっぺとか、くちっぺなどとは言わない。
どんなに無理やり探しても、
すかしっぺかにぎりっぺくらいのものだろう。
なぜ、ほっぺという言葉が生まれたのか。
ちょっと調べてみたら、面白いことがわかった。
まず、
「ほっぺた」という言葉がある。
これはなんと、方言なんだそうだ。
主に東日本の方言として「ほっぺた」という言葉がある。
では西日本はどうなのかというと「ほーべた」とか「ほーべら」というらしい。
神奈川県厚木市生まれの生粋の江戸っ子である僕は、ほーべらなんて聞いたことがない。
だが、
ほーべらという言葉よりも、ほっぺたという言葉の方が新しく後から生まれたもので、
江戸時代に江戸を中心に使われ始めたのがほっぺだだそうだ。
そしてなんと、ほっぺたやほーべらには漢字がある。
それは「頬辺」という漢字で、
「ほおべた」と読むらしい。
となれば、
これがほっぺたやほーべらという言葉になっていくのは、
自然な流れとしてイメージすることができる。
そしてほっぺたが「ほっぺ」になった、ということだ。
さて、ここでもう一つの問題が生じた。
「頬辺」つまり「ほおべた」という言葉だが、
もともとの意味は「頬のあたり」ということだそうだ。
ということは、
頬=ほっぺは厳密には成り立っていないということになる。
というか、頬のあたりというのはどのあたりのことを言うのだろうか。
例えば、
銀座と言われたら、それは銀座だ。
だけど、銀座のあたりとか、銀座らへんと言われたら、
それは有楽町や日比谷などのことも指すようになってくる。
ほっぺが頬のあたりということなら、
それはあごやこめかみなども含むということになるんだろうか?
いや、そうはならないだろう、とまさに自分のほっぺを触りながら思う。
そして自分のほっぺを触っていたら、さらにもう一つの問題が生じてしまった。
頬骨である。
頬骨は、その字の通り、まさに頬を構成する重要部位だ。
だけど、頬骨を触った時に、
「これもほっぺである」
とはどうしても思えない。
ほっぺというのは、やはり柔らかくなくてはいけない。
となってくると、
ほっぺというのは頬のあたりどころか、
頬の中の一部分のことを指す言葉のような気がしてきてしまうのだ。
なんだかクラクラしてきた。
お昼前でお腹が空いているからだろうか。
これはいけない。
とりあえず、息子のほっぺを触る。
するとどうだろう。
本当にどうでもいいことを考えていたことに気づく。
うちの息子が一番かわいい。
これこそが客観的事実であり、世界の真実なのである。