のっさん、と呼ばれていた。
何を隠そう、僕のことである。
あなたは、人からのっさんと呼ばれたことがあるだろうか?
おそらくはないと思う。
のっさんと呼ばれるには、ある特別な条件を満たす必要があるからだ。
僕がのっさんと呼ばれ始めたのは、
小学校の3年生くらいの時ではないかと思う。
いや、もしかしたら、1年生の時からすでにのっさんと呼ばれていたかもしれない。
つまり、
その頃から僕はのっさんの頭角を表していたかもしれない。
が、定かな記憶ではない。
ただ一つ言えることは、
僕は小学生の時にはのっさんと呼ばれる状態にまでなっていた、ということだ。
とはいえ、
僕がのっさんと呼ばれるようになるのに、
何か僕自身が努力をしたり、勉強をしたり、実践したり、
ということは何もなかった。
ただ気がつけば、
周りが僕のことをのっさんと呼ぶようになっていたのだ。
地域性があるものなのかどうかは定かではない。
それに、のっさんになって何か特権みたいなものがあったかというと、
特にそういうこともない。
ただただ、のっさんと呼ばれるに至ったのだ。
だから、嬉しいとも悲しいともなんとも思うことはなかった。
いや、
のっさんと呼ばれ始めた頃は、
少し嬉しかったかもしれない。
なぜなら、
みんなが僕のことをのっさんのっさんと呼んでくれるからだ。
もう一度確認するが、
あなたはのっさんと呼ばれたことがあるだろうか?
まずないと思う。
それくらい、普通の人にとっては、
のっさんと呼ばれるのは普通のことではないのだ。
にもかかわらず、
こと僕の場合には、なんの努力もなく周りがのっさんと呼んでくれるようになった。
みんなが口を揃えて、だ。
最初はのっさんと呼ばれた僕自身、
なんのことを言っているのかはわからなかった。
だけど、
それが僕のことを示す新たな呼称であること、
そして、僕の世界にのっさんと呼ばれている人が僕しかいなかったこと、
みんなが僕のことをのっさんと発してくれること、
これが嬉しかったのだ。
だが、
そんなふうにしてみんなが僕をのっさんと呼んでくれた時期は、
そう長くは続かなかった。
月下美人が一晩しか咲かないように、
蝉が一夏を越えられないように、
気づけば燕の巣が空っぽになっているように、
僕自身ものっさんとは呼ばれなくなっていた。
中学を卒業する頃には、
もう誰も僕のことをのっさんとは呼ばなくなっていた。
僕がそうしたわけではない。
社会がそうしたのだ。
かつてのっさんなどと呼ばれていたこの僕でも、
時折地元の同級生と会ったりすることがある。
するとふいに、
「のっさん」
と呼ばれることが、本当に時々ある。
そんな時、ふいに蘇るのだ。
のっさんだった時の記憶が。
誰も僕のことをのっさんと呼ばなくなった今、
僕はもう、のっさんではないのだろうか。
それとも、
面と向かって名前を呼ぶのが恥ずかしいくらい近すぎる間柄になったとしても、
その人がその人であることは変わらないのと同じように、
僕は今でものっさんなのだろうか。
環境が人を作るという。
であるならば、自然と周りが僕のことをのっさんのっさんと呼んでくれていたあの頃、
僕は自然とのっさんになっていったのだろう。
そして、
僕からそれをやめるというでもなく、卒業するでもなく、
やはり周りが、環境が、僕をのっさんと呼ぶのをやめた時、
僕も自然とのっさんでなくなっていったのだろう。
もったいないと思うだろうか?
僕はそんなふうには思わない。
その気になれば、
僕が僕をのっさんと呼ぶことができる。
その時は、またのっさんに戻れるのだ。
それが本当にのっさんと言えるのだろうか、と疑問に思うだろう。
でも良いのだ。
これは僕自身の満足度の問題なのだから。
そして、
時々は、僕のことをのっさんと呼んでくれる人がいる。
そんな時、僕はまた環境の力によってのっさんに戻れるのだ。
つまり、
もうのっさんではない僕の中にはいつも、
のっさんとしての僕がいる、ということなのだ。
それにしても、
僕はどんな資格があってのっさんになれたのだろう。
記憶の意図をたどって思い返してみる。
なかのっさん。
おそらくそれが、
小学校に入って最初につけられた僕のあだ名だ。
ちなみにその前はたーくんだった。
これは親や親戚から呼ばれていたものだ。
当時教室では、
「苗字」+「っさん」という呼び方が流行っていた。
なかのっさん
ときわっさん
いや、流行っていたわりには僕を含めたこの二人だけだったようにも思う。
そして、こういったあだ名というのは、
えてして短くなっていくものだろう。
ちょうど、秋の日の夕暮れから日没のスピードがどんどん速くなっていくみたいに。
なかのっさん
ときわっさん
が、
のっさん
わっさん
になるのにはそう時間はかからなかった。
かくして、のっさんが生まれたのだ。
ほんとそれだけなんだ。
ごめん。