【り】リスクの話

リスク、という言葉の捉え方が難しいな、と思う。

今までたくさんの人と会ってきて、特にビジネスをやったことがない、とかビジネス初心者である、という人は、

「リスクを取りたくない」

と言うことが多い。

 

だけど僕が思うに、

そもそも「リスクを取らない」ということが難しい。

というより不可能だと思うのだ。

 

なぜなら、

なにかを選択するということは、

それについて必ず何かしらのリスクが伴うからだ。

 

かといって、

「じゃあ何も選択しない」という選択をすることも、

またリスクを伴う。

 

選択しようが選択しまいが、

結局は選択するということを選択するか、

選択しないということを選択するか、

ということになるので、

生きている限り常に選択の連続になる。

 

今これを読んでいるあなただって、

「これ以上読むべきか、もうやめるべきか」

という選択に迫られている。

 

もしこれ以上読んで、何も学びにならなかったり、

僕にそそのかされてお金を使わされたりしたら、

これ以上読み進めることはリスクになる。

 

でも、

ここで読むのをやめてしまったとして、

ここから先の文章の中に、

あなたの人生がとてつもなく良い方向に変化する方法が書いてあったとしたら、

読まなかったことがリスクになってしまう。

 

そして、

そのどちらもあるかもしれないしないかもしれない。

 

つまり、あなたは何かを選択しなければいけないし、

そのどちらにも必ずリスクがある、ということだ。

 

今、玄関のドアを開けてみよう。

開けたら裸のおじさんが立ってるかもしれない。

絶対そんなことはあり得ないなんて言い切れない。

ということは、玄関のドアを開けることにはリスクがある。

 

だけど、

裸のおじさんが立ってるかもしれないから、

という理由で、この先ずっと玄関のドアを開けなかったらどうなるだろう。

今度は餓死するリスクがある。

 

わかるだろうか。

 

何を選択しようが選択しまいが、

あなたは選択するということか選択しないということのどちらかを選択している。

 

そして、そのどちらにも必ずリスクがある。

 

つまり、

リスクゼロの選択なんて、本来あり得ないのだ。

 

どこにだって、

裸のおじさんがいるかもしれない。

生きるということは、こんなにも恐ろしいことなのだ。

 

ああ、こうして中身のないエッセイを書くために、

画面に集中している間にも、

僕の背後に裸のおじさんが忍び寄っているかもしれない。

 

「そんなことあるわけないだろう」

と思われるかもしれないが、

でも、絶対にそんなことはあり得ない、と絶対に言い切れるだろうか。

その実現可能性をゼロにすることは可能だろうか。

 

それは不可能だ。

裸のおじさんはどこにだって忍び込んでくるのだ。

 

「常識的に考えて」と思うかもしれないが、

公衆の面前で裸になるようなおじさんに

果たして常識が通用するのだろうか。

 

しかしながら、

生きるということは選択の連続である。

いかに裸おじさんリスクがゼロにならなくても、

玄関のドアを開けなければいけない時がある。

 

なぜなら、

玄関のドアを開けなければ、

そのうち餓死してしまうからだ。

 

ウーバーにしたって、amazonにしたって、

何かを届けてもらったって、それを家の中に入れるのは玄関をあけるしかない。

 

もしかしたらウーバーの配達のお兄さんだって裸かもしれない。

amazonから届いた箱を開けたら、裸のおじさんが入っているかもしれない。

 

それでも僕たちは、

ウーバーが来たら玄関を開けなければいけないし、

amazonが届いたら箱を開けなければいけないのだ。

 

餓死するわけにいかないのだから。

 

さて、話を裸のおじさんに戻そう。

 

いや、話をリスクの話に戻そう。

 

どんな選択をしようがしまいが、

それ自体が選択であり、

全ての選択には何かしらのリスクが伴うということはこれでわかったと思う。

 

その時に考えなくてはいけないのは、

「リスクを取らない」ことではなく、

「リスクをコントロールすること」だ。

 

裸のおじさんに遭遇することと、

餓死することでは、どちらの方がリスクが高いだろうか。

 

また、

玄関を開けたら裸のおじさんがいる可能性と、

ずっと玄関のドアを開けないことで餓死する可能性、

どちらの方が高いだろうか。

 

これを考えることがリスクコントロールだ。

 

リスクがない選択なんていうものが最初から存在しない以上、

どちらの方がより可能性とリスクが低いのかを選ぶ必要がある。

 

ところが、

である。

 

ここで「とにかくリスクがあるのならば嫌だ」と言って、

自ら選ぶことそのものをやめてしまう人がたくさんいる。

 

つまり、

「今は選ばない」という選択をするということだ。

 

しかも、

「今は選ばない」という選択にはリスクがないと思い込んでいる。

これが非常に厄介なのだ。

 

例えば僕は仕事柄、

ビジネス的な相談を受けることがよくある。

 

僕も、ずっと無料で相談を受けるわけにもいかないので、

「これは仕事なので、コンサル料をもらうことになる」

と言わざるを得ないこともある。

 

そういうことを言った時に、

「お金がかかるならいい」

という人もいる。

 

それ自体は別に構わない。

その人にとっては「お金をかけるほど優先順位が高くなかった」ということがわかるし、

僕にとっては「その会話に時間をかけるほど、相手にとって優先順位が高くない」ということがわかるからだ。

 

だが、

その際の思考回路に、

「お金を払うことはリスクだ」

という考えが挟まっているならば、

それは多少改めた方がいいんじゃないかと思う。

 

もちろん、

何でもかんでもポンポンお金を使えばいいということではない。

そんなことしてたら破産してしまう。

 

だけど、

お金を使わないでいることも、またリスクであるとことを見落とす人も多い。

 

というより、

お金を使うことは特にリスクが高いことである、

という思い込みを持ってしまっている人が多いのだ。

 

これが、

ビジネス未経験の人やビジネス初心者の人によく見られる。

 

たとえば、コンサルを提案する。

そこで、

「お金をかけても結果が出なかったら無駄になってしまう」

と考える。

 

一見その思考は正しく見えるかもしれない。

でも、考えてみてほしい。

 

「じゃあ、コンサル受けないで一人でやったら結果出せるの?」

多くの場合、それが不可能だから相談に来ているのである。

 

結果を出せないということは、

将来手にできるかもしれなかったお金を失っているということだし、

教わらずに勝手な我流でやっている間の時間と労力を失うということでもある。

冷静に考えれば圧倒的にこちらの方がリスクが高い。

 

お金は後からいくらでも取り戻せるけど、

失ってしまった時間だけはどうしたって取り戻せないのだ。

 

時間というのは命だ。

生きている時間のことを命と呼ぶのだから。

 

だから、本当は時間こそが何よりも大切なのである。

 

でもそれを失うことよりも、

目先のお金を失うことの方にリスクを感じてしまう。

 

こんなのは、

東京から沖縄に行くのに、

「お金がもったいないから歩いて行く。九州〜沖縄間は木を伐採していかだを自作して渡る」

と言っているのと同じだ。

 

どちらの方がリスクが高いか、こう考えるとわかるはずだ。

 

お金を過剰なリスクと捉えていると、

人生がどんどん貧しいものになる。

お金なんて、使って初めて価値が生まれるものだ。

100万円の札束があったって、それ自体を食べることはできない。

 

餓死するかもしれない時なら、

100万円の札束よりも、100円のおにぎりの方が価値がある。

 

お金というのは時間短縮の道具に過ぎないのである。

使わない方がリスク、とも言えると僕は思っている。

これは、ある程度ビジネスの経験がある人なら誰でもわかる話のはずだ。

 

スティーブ・ジョブズだって、

墓の中で金持ちになろうとは思わない、

と言っている。

 

もちろんお金を使うときは吟味は必要である。

だけど「お金がかかる」=「リスク」=「選択しない」を繰り返していると、

その先には貧しさしかない。成長もしない。

 

成長しないということは、

収入が増えることもない。

 

今、世の中の物価はどんどん高くなっている。

 

このまま物価が上がり続けて、収入が増えないことはリスクではないのだろうか。

そうこうしているうちに、

ろくに食べ物を買うことができなくなったり、

衣服を買うことができなくなったり、

家賃を払えなくなるかもしれない。

 

衣食住を奪われるかもしれないのだ。

 

もしそうなってしまったら、どうしたらいいのだろう。

 

そうなったときは、

裸で人の家の玄関の前に立つしかないのだ。

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