僕が幼稚園に通い、小学校の低学年を終える頃くらいまで、
僕は厚木の吾妻荘というボロアパートに住んでいた。
トイレは和式。
木製のお風呂のドアは表面の皮が剥がれて不気味な模様になり、
金属製の外の階段は朽ちて穴が空いている。
僕が物心ついた頃、家族でそこで暮らしていた。
その前にも別のところに3箇所くらい住んでいたらしいのだが、
その頃の記憶はない。
今思えば、妙に引越しの多い家だった。
いつだったか、なんとなく懐かしくなって、
車で吾妻荘の方に行ってみたのだが、
そこにはもう吾妻荘はなく、もっと綺麗な新しいマンションが建っていた。
なんとなく悲しかったが、
でも、まあそんなもんだよな、とも思った。
僕が住んでいた頃から、
その周りは良く開発されていた。
国道246からも近かったからだろう。
DIYの大型店舗であるドイトができたり、
そのドイトがドンキホーテに変わったり。
今はその辺りはマンションやアパート、一戸建てがたくさんあるが、
僕が住んでいた頃はまだまだ畑や田んぼが多かった。
そんな頃の思い出として、
なぜかたびたび思い出すのが、
目の前の田んぼだったか畑だったかで母とせり摘みをしたことだ。
せりなんてものはバクバク食べるものじゃないから、
その頃せりがどんな味だったか、
なんてことは全く思い出せない。
というか、
摘んできたせりが何に使われたのか、
食卓に上がったのか、
それすら覚えていない。
大根は葉っぱまで味噌汁に入れていた母なので、
摘んできたせりをそのまま捨てる、
なんていうことはないだろう。
僕は何かしらの形でそのせりを食べているはずだ。
ただ、
僕の記憶に強く焼き付いているのは、
せりを摘んでいたところなのだ。
たぶんそれだって、
そんなに何度も行ったわけじゃないと思う。
もしかしたら1回か2回の話だったのかもしれない。
母が、せりの形を教えてくれるのだ。
これは他の草、これはせり。
僕はそれを聞いて、見て、覚えるけど、
それでも他の草も一緒にとってしまう。
母がそこからせりをより分ける。
同じ場所で、しろつめくさを摘んだ記憶もある。
いなごもとったかもしれない。
その頃一度だけ、いなごの佃煮を食べた記憶もある。
今はもう、食べられない。
母とせりを摘んだような思い出を、
僕は息子に対してどんなふうに残してあげることができるのだろうか。