「今日は『れ』かぁ」
なんてことを考えていた。
はっきりいって、よっぽど思い入れがある場合以外は、なんでもいいのである。
そもそもこの「あいうえッセイ」は、
僕が伊集院光さんと伊集院静さんを間違えて書籍を購入してしまったところからはじまった
パクリ企画だ。
大した思い入れはない。
題材が決まってさえしまえば、あとは適当にどうにでも書ける。
何を書こうが、別に誰かに何か影響を与えるわけでもなければ、
ビジネス的に責任が伴う文章というわけでもない。
そもそもが、
目的を持たない文章を散文、つまりエッセイと呼ぶのだろう。
できるだけ無責任に書きたいものだ。
そう思うと、
このエッセイを続けていて一番大変なことと言ったら、
それは題材を決めることだ。
今日は、れ。
れんこん?
レンタル?
レ?(音楽の)
書こうと思えばなんでも書ける。
なんでも書けるからこそ、迷ってしまうのだ。
無限にメニューがある定食屋みたいな感じだ。
そんなこんなで、
「れ」について、何を題材に書こうか、なんていうことを考えたいたところ、
「よ」の時にお世話になった横井さんからLINEが来た。
「○○さんという人が、中野の同級生ということで話しかけてきたよ」
と。
そう、今日は成人の日で祝日なので、
横井さんはいつも通り試合に出ている。
土日祝日なのに横井さんが試合に出ていないなんてことがあったら、
健康を害する何かが起きてしまったのではないか、
と心配になってしまう。
そういうわけで、
横井さんは今日もいつも通り試合だ。
僕はその「○○さん」という人を当然知っていた。
同じ中学校ではなかったけど、
同じ地域の中学校の卓球部だったのだ。
にしても、
なぜ横井さんに話しかけてくれたのか、と思案していたら、
「あいうエッセイの横井編を読んでたらしい」
と。
うん。
これは、
恥ずかしいぞ。
中学生の頃の同郷の友だちに、
自分が書き散らかしているエッセイを読まれるなんていうのは、
ベッドの下に隠しておいたエロ本を母親に見つかったり、
そのショックで学校で先生のことを「お母さん!」って呼んでしまったり、
授業中に急に催して手をあげ、先生に向かって「トイレ!」と叫んだら、
「先生はトイレじゃありません!」と言われたショックでトイレ先生に向かって放尿してしまったり、
それくらい恥ずかしいこととして知られている。
それに続けての横井さんからのLINE。
「中野の文章力を参考にしてるらしいよ」
と。
僕はですね、
僕の文章を世の人に読ませることで、
いかに無駄な時間を過ごさせるか、
ということくらいしか考えていないのですよ。
だいたいこれは散文であって、
目的もなく書かれているのだから、
読んだところで得られることなんて、
何もありゃしないんだよ岡澤くん。
そんなわけで、同郷の○○くんが僕のエッセイを読んでいるらしいということを知ってしまった今、
僕は「れ」について何を書こうか、それでもまだ考えあぐねている。
どうだろうか。
素晴らしいと思わないか。
すでに文字数カウンターは1200文字を超えているのだ。
ここまでいっさい中身のない話である。
それをあなたもここまで読んでいるのだから、
地図を見て道に迷っていそうなおばあちゃんに声をかけようかどうしようか迷ったり、
優先席じゃないけど目の前におばあちゃんが立ったから席を譲ろうかどうしよか迷ったり、
そんなふうにするくらいにはまあまあ優しい心の余裕の持ち主なのだろうということは想像に難くない。
でさ、
レ
ですよ。
ほんと、どうします?
僕は、お題さえあればなんだって書ける。
だけど、それは工場みたいなもので、
発注がないと動かないのだ。
なんとも哀れなものだ。
ん?
哀れ?
ああ、僕はレミゼラブルだ。
(脚本注・筆者、ここで題名に「レミゼラブル」と記す)